6年 国語 古典芸能に親しむ

古典芸能 ── 本ではなく、人の体で運ばれてきた古典

『枕草子』や『平家物語』は、文字で書かれて本にしまわれ、千年ちかく残ってきました。ところが古典には、もうひとつの残り方があります。狂言は約六百年前に生まれた劇ですが、わたしたちは台本を読むのではなく、今夜もどこかの舞台で「生で」見ることができます。歌舞伎も、落語もそうです。これらをまとめて古典芸能とよびます。古典芸能とは、ひとことで言えば、本ではなく、人の体にしまって運ばれてきた古典なのです。

古典には、二つの残り方がある

古典の授業で読む古文は、「文字」という乗り物に乗って、ここまでやって来ました。書いた人がなくなっても、紙と文字が千年先まで中身を運んでくれます。読む側のわたしたちは、残された文字から、当時の声や景色を想像します。

いっぽう古典芸能の乗り物は、紙ではありません。人の体です。師匠が目の前で演じてみせ、弟子がそっくりそのまま声の調子・体の動き・間の取り方までまねて、自分の体に写しとる。その弟子がやがて師匠になり、次の弟子に写す。この「体から体へのリレー」を、狂言はおよそ六百年、くり返してきました。

 文字の乗り物(古文)   書いた人 → 紙に残す → 千年後の読む人  体の乗り物(古典芸能)   師匠 →(けいこで写す)→ 弟子 →(けいこで写す)→ 次の弟子 → …   声の調子も、動きも、間も、まるごと運ぶ

じつは、これとよく似たリレーを、1年生のころにもう知っています。昔話は、口から耳へ、何百年も語りつがれてきたお話でした。古典芸能はいわば、そのプロフェッショナル版です。「伝えること」を仕事にした人たちが、代々、人生をかけて中身を運びつづけてきました。だから昔話よりもずっと細かいところまで、六百年前の形が残っているのです。

狂言 ── 六百年前の笑いが、今も通じる

狂言が生まれたのは室町時代。能という劇とセットで育ちました。能は、歌と舞で見せる、しずかで真剣な劇。狂言は、その合間に演じられる、せりふ中心の笑いの劇です。真剣な能のあいだに笑いをはさむ ── この組み合わせごと、約六百年つづいてきました。

 能・狂言      … 約600年前(室町時代)に生まれた  歌舞伎・人形浄瑠璃 … 約400年前(江戸時代の初め)に生まれた  落語        … 約300年前(江戸時代)に生まれた

狂言の舞台は、「このあたりの者でござる」という、きまった名乗りで始まります。この一言が聞こえたら、お話が始まる合図です。昔話の「むかしむかし、あるところに」とまったく同じ仕事をしていることに気づいたでしょうか。どこの誰とははっきり言わない、ふつうの人。だからこそ、いつの時代のお客さんにも通じるのです。

教科書にものっている「柿山伏」を見てみましょう。山で修行をつんだはずの山伏が、おなかがすいて、よその柿の木に登って柿を盗み食いします。木の持ち主に見つかると、あわててかくれますが、持ち主はわざと「あれは人ではない、からすだ」。山伏は、人ではないふりをしようとして「こかあ、こかあ」と鳴いてしまう。次は犬、次はさる。しまいには「あれはとびだ」と言われて、飛ぶまねをして木から落ちる ── というお話です。

笑いの中身を見てください。見えをはる、ごまかす、ひっこみがつかなくなる。六百年前の失敗は、今のわたしたちの失敗と同じです。古い言葉で演じられているのに客席で笑いが起きるのは、人間のおかしさが六百年たっても変わっていないからです。

歌舞伎 ── いちばんの見せ場で、動きを止める

歌舞伎が生まれたのは江戸時代の初め。出雲の阿国という人がおどった「かぶき踊り」が始まりといわれます。江戸時代の町人たちにとって、歌舞伎見物は最高の楽しみでした。

歌舞伎のいちばん有名な約束ごとが見得です。物語がいちばん盛り上がった瞬間、役者はぴたりと動きを止め、首を回して、ぐっとにらみます。写真もクローズアップもない時代に、「今がいちばん大事な場面だ」を全員に見せる発明です。動きつづけるより、止まったほうが目にやきつく ── 逆転の発想でした。

 隈取(くまどり)=顔の絵の具の色が、役の中身を教える   赤い線 → 正義・強さ・勇気のある役   青い線 → つめたい悪役  見得(みえ)=いちばんの見せ場で、動きを止めてにらむ   → 遠くの席からでも「今が大事な場面」と分かる

役者の顔にえがく隈取も、同じ発明です。赤い線は正義や勇気のある役、青い線は悪役。広い小屋のいちばん後ろの席からでも、顔の色を見ただけで、どちらが味方か一目で分かります。そして見得が決まった瞬間、客席からは「成田屋っ!」とかけ声がとびます。これは役者の家に代々つたわる屋号で、お客さんも声で舞台に参加するのが歌舞伎の楽しみ方なのです。

ちなみに同じころ、三人がかりで一体の人形をあやつる人形浄瑠璃も生まれています。江戸時代は、古典芸能がいちどにたくさん生まれた時代でした。

落語 ── 道具は扇子と手ぬぐい、あとはお客の想像力

落語は、江戸時代に育った「ひとり語りの劇」です。座布団にすわったまま、立ち上がらず、たった一人で、おじいさんも子どもも大店の主人も演じ分けます。使ってよい道具は、たった二つ。扇子と手ぬぐいだけです。

 扇子  → はし・筆・刀・きせる に見立てる  手ぬぐい → 本・さいふ・手紙 に見立てる  役の演じ分け=顔の向き(上下を切る)   右を向いて「おい、はっつぁん」 → だんなの役   左を向いて「へい、なんです?」 → はっつぁんの役

扇子をすぼめて口に運べば、そばをすする「はし」になる。手ぬぐいをひらいて目を落とせば「本」になる。これを見立てといいます。顔を右に向けるか左に向けるかで話し相手が入れかわるので、一人なのに会話が成り立ちます。舞台装置はどこにあるのでしょう。聞いている人の頭の中です。落語家が出すのは手がかりだけで、そば屋の湯気も、長屋の路地も、お客が自分の想像力で建てる。だから落語は、聞く人が上手になるほどおもしろくなる芸だといわれます。

「じゅげむ、じゅげむ、ごこうのすりきれ…」で有名な「寿限無」のように、声に出すだけで楽しい演目もあります。そして落語の終わりには落ち(サゲ)とよばれる、話をしめくくる一言が待っています。「めでたし、めでたし」と同じ、終わりの合図です。落ちが決まると、お客は拍手で現実の世界にもどってくるのです。

どうして、言葉を今ふうに直さないのか

ここで、ひとつの疑問がわきます。「このあたりの者でござる」を「このへんに住んでる者です」に直せば、もっと分かりやすいのに。なぜ古典芸能は、六百年前の言葉のまま演じるのでしょうか。

理由は二つあります。一つめ。古典芸能が運んできたのは、せりふの「意味」だけではないからです。言葉の調子・リズム・間まで、まるごとひとつの芸として体に写してきました。「ござる」を「です」に入れかえると、六百年かけてみがかれた音の形が、そこだけくずれてしまいます。

二つめ。直さなくても、ちゃんと伝わるからです。古文を目で読むのはむずかしいのに、狂言を見ると、古い言葉のままで笑えます。声の大きさ、顔、動きが意味をいっしょに運んでくれるからです。もともと舞台の言葉は、耳で聞いてその場で分かるように、何百年もかけて選びぬかれてきました。古文に親しむ第一歩として古典芸能がすすめられるのは、これが理由です。目で読むとむずかしい古い日本語に、耳と目から入れるのです。

こう考えると、きびしい「型」のけいこも、ちがって見えてきます。型は自由をうばう決まりではなく、六百年分の中身を運ぶための乗り物です。型を体に写した人が一人でも生きているかぎり、紙が一枚も残らなくても、この古典はほろびません。

たしかめてみよう

Q1 古典芸能は、古文とちがって、何に乗ってここまで運ばれてきましたか。

A 人の体です。師匠から弟子へ、声の調子・動き・間を、けいこでまるごと写しとるリレーで運ばれてきました。

Q2 狂言の始まりの合図となる、きまった名乗りは何ですか。

A 「このあたりの者でござる」という名乗りです。昔話の「むかしむかし、あるところに」と同じ、始まりの合図の仕事をしています。

Q3 歌舞伎の「見得」とは、何をすることですか。

A いちばんの見せ場で動きを止めて、にらむことです。クローズアップのない時代に、大事な場面を全員に見せる発明でした。

Q4 隈取の赤い線と青い線は、それぞれどんな役を表しますか。

A 赤い線は正義や勇気のある役、青い線はつめたい悪役です。遠くの席からでも、味方と敵が一目で分かります。

Q5 落語家が使ってよい道具を二つ答えてください。

A 扇子と手ぬぐいです。はしや本などに「見立て」て使い、足りないものはお客の想像力がおぎないます。

Q6 古典芸能が、せりふを今の言葉に直さないのはなぜですか。

A 言葉の調子やリズム、間までがひとつの芸として受けつがれてきたからです。それに、声と動きがいっしょに意味を運ぶので、直さなくても伝わります。

まとめ

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6年生の国語には、狂言「柿山伏」や落語などを扱う、古典芸能に親しむ単元があります。本文では演目の暗記ではなく、「古典芸能とは体で受けつがれてきた古典である」という一本の筋で、狂言・歌舞伎・落語に共通する仕組み(始まりの合図・型・観客の参加)を整理しました。文字の古典(古文)と対にして捉えると、6年生の古典学習全体が立体的になります。

この単元は、実物の映像を一度見るだけで理解が大きく変わります。狂言「柿山伏」や「附子(ぶす)」、落語「寿限無」は、子ども向けの上演動画や教育番組でも取り上げられる定番です。「古い言葉なのに、意味が分かって笑えた」という体験そのものが、この単元のゴールに当たります。

能楽(能・狂言)、人形浄瑠璃文楽、歌舞伎は、いずれもユネスコの無形文化遺産に登録されています。「無形」――つまり形が無く、人の体にしか保存できない文化という考え方は、本文の芯とそのままつながります。お近くの劇場や学校の芸術鑑賞会で実演に触れる機会があれば、ぜひ「どこで観客が参加しているか」を探しながら見てみてください。