「食べれる」はまちがいなのか ── 「られる」は四つの仕事をかけもちしている

この単元について

作文に「ぼくはピーマンが食べれるようになった」と書いたら、先生に赤ペンで「食べられる」と直された。でも、家でも、友だちどうしの会話でも、テレビに出ている大人まで、「食べれる」「見れる」とふつうに言っています。直されたとき、「どうしてだめなの?」と聞けたでしょうか。

この「ら抜き言葉」は、「くずれた言葉」「だらしない言い方」としてしかられがちです。けれどもこの記事で見ていくのは、まったく逆の顔です。ら抜き言葉は、日本語が百年以上かけて進めている言葉の整理工事の、いちばん新しい現場です。しくみが分かると、「なぜ直されるのか」と「なぜみんな使うのか」の両方に、それぞれちゃんと理由があることが見えてきます。

「られる」は四つの仕事をかけもちしている

まず、直したあとの形である「食べられる」の側を調べます。じつはこの「られる」、一人で四つの仕事をかけもちしている、日本語でも指折りのはたらき者です。

仕事例文意味
受け身弟にケーキを食べられるほかの人にそうされる
可能ピーマンが食べられるすることができる
尊敬校長先生が給食を食べられる目上の人の動作を高める
自発ふるさとのことが思い出される心がひとりでにそう動く

四つめの「自発」だけは、聞きなれないかもしれません。「秋になると、転校した友だちのことが自然と思い出される」のように、しようと思っていないのに心がかってにそうなる、という意味です。

大事なのは、四つとも形がまったく同じだということ。「られる」という字づらを見ただけでは、いまどの仕事をしている最中なのか、区別がつかないのです。

かけもちだから、事故が起きる

仕事のかけもちには、取りちがえという事故がつきものです。給食の時間に、こう聞いたとします。

「先生は、このきのこを食べられますか。」

この一文は、少なくとも三通りに読めます。一つめは「食べることができますか」という可能。二つめは「めしあがりますか」という尊敬。三つめは、だれかに横取りされる心配をしている受け身の読み方で、「(ほかの人に)このきのこを食べられてしまいますか」。三つめはさすがに苦しいとしても、可能と尊敬のどちらなのかは、この文だけでは本当に決まりません。聞いた先生は、前後の話の流れから「アレルギーの話をしていたから、たぶん可能だな」と頭の中で推理しているのです。

意味の候補がいくつもあって、どれなのかはまわりの言葉で決まる──これは多義語の記事で勉強した状況とそっくりです。ただし「られる」の場合、できるかどうかの話と、うやまっているかどうかの話を取りちがえると、失礼になってしまうことさえあります。

ら抜きは、「可能」専用の印

ここで「食べれる」の出番です。さっきの質問を、ら抜きで言い直してみます。「先生は、このきのこを食べれますか。」──どう聞こえるでしょうか。

じつはこの文、「食べることができますか」という可能の意味にしか取れません。「ら」を抜いたとたん、受け身の読みも尊敬の読みも消えて、意味がただ一つに決まるのです。

つまりら抜き言葉は、なまけて「ら」を落とした形ではありません。四つの仕事のうち「可能」だけを切り出して、専用の形をあたえた言い方です。だらしなくなるどころか、あいまいさが減って、伝わり方はむしろ正確になっています。みんなが使うのには、ちゃんと理由があったのです。

じつは、これが二度目の工事

「言葉の形を勝手に変えていいの?」と思うかもしれません。ところが日本語は、まったく同じ工事を、過去に一度やりとげています。

昔の言い方(明治のころまで)今の言い方今のあつかい
この道は行かれますかこの道は行けますか「行ける」が正式な形
小さい字でも読まれますか小さい字でも読めますか「読める」が正式な形
この川でおよがれますかこの川でおよげますか「およげる」が正式な形

「行ける」「読める」「書ける」「泳げる」。あなたが毎日使っている「できる」の言い方は、もとはどれも「行かれる」「読まれる」という、れる・られる形から生まれた新しい形でした。明治のころの小説には、可能の意味の「行かれる」がふつうに出てきます。それから百年ほどで新しい形がすっかり定着し、今では国語辞典も教科書も「行ける」を正式な形としてのせています。この仲間を可能動詞と呼びます。

れる・られるのかけもちから、可能だけを切り出す──この工事は、一度完成しているのです。いま「食べれる」「見れる」で起きているのは、その二度目の工事。前回はとっくに工事が終わって「正しい日本語」の仲間入りをすませ、今回はまだ工事のとちゅう。ちがいは、じつはそれだけです。

どの言葉で起きるのか、自分で見分けられる

ら抜きは、どんな動きことばにも起きるわけではありません。起きる場所はきれいに決まっていて、自分で見分けられます。使う道具は、「ない」を付けてみるという、かんたんな操作です。

動きことば「ない」を付けると直前の音「できる」の言い方
行く行かないア段行ける(工事ずみ)
読む読まないア段読める(工事ずみ)
食べる食べないエ段食べられる ← ここで「食べれる」が生まれる
見る見ないイ段見られる ← ここで「見れる」が生まれる

「ない」の前がア段の音になる仲間は、前回の工事で専用の形(行ける・読める)をすでに持っています。だから、ら抜きは起きようがありません。いっぽう、「ない」の前がエ段・イ段になる仲間と「来る」は、可能を今も「られる」とのかけもちでまかなっています。ら抜きが生まれるのは、工事がまだ届いていないこの場所だけなのです。「見れる」「食べれる」「来れる」「起きれる」「出れる」──ら抜き言葉を集めてならべると、みごとにこの仲間だけがそろいます。

では、あした出す作文にはどう書くか

ここまで読むと、「じゃあ、ら抜きでいいんだ」と言いたくなります。でも、あした提出する作文には「食べられる」と書くことをすすめます。理由は、言葉の工事には長い時間がかかり、書き言葉は話し言葉よりずっとゆっくり変わるからです。

国が毎年行っている言葉の調査では、「見られた」より「見れた」を使う人のほうが多くなった、という結果がすでに出ています。それでも、新聞・教科書・役所の文章といった公の書き言葉は、今も「見られた」で書かれています。テストや作文はこちらの世界に属しているので、ら抜きで書くと直されるのです。

これは話し言葉と書き言葉の記事で勉強した、「どちらが正しいかではなく、場面で選ぶ」という話そのものです。あの記事の表では、ら抜きは「書くときには直す言い方」として一行だけ出てきました。今日の記事は、その一行の裏側にあった、百年がかりの工事の物語だったわけです。

まちがえやすいところ

1. 「行けれる」はやりすぎ(れ足す言葉)

「行ける」はもう可能専用の形です。そこへさらに「れ」を足して「行けれる」「読めれる」と言ってしまうことがあり、こちらは「れ足す言葉」と呼ばれます。可能の印がすでにある形に、もう一枚印を貼っている状態で、ら抜きとちがって意味の整理に役立っていません。工事ずみの場所に、まちがえて二度目の工事を始めてしまった形です。

2. 尊敬の「られる」から「ら」は抜けない

「校長先生が教室に来られる」を「来れる」にすると、「校長先生は来ることができる」という可能の意味に変わって、うやまう気持ちが消えてしまいます。ら抜きは可能専用の印なので、尊敬の仕事をしている「られる」には使えないのです。うやまう言い方の種類は敬語の記事でたしかめてください。

3. 「全部だめ」でも「全部OK」でもない

ら抜きをまちがいと言い切るのも、もう正しいと言い切るのも、どちらも実態と合いません。いちばん正確な呼び方は「工事中の言葉」です。会話では意味をはっきりさせる便利な道具、公の文章ではまだ直される形。両方を知っていて、場面に合わせて選べる人が、言葉の使い手としていちばん強いのです。

まとめ

言葉は、博物館のガラスケースにおさまった完成品ではなく、今この瞬間も形を変えながら使われている道具です。あなたが友だちに「見れるよ」と言うとき、そして作文で「見られる」と書き直すとき、あなたは百年がかりの言葉の工事の現場に、両足で立ち会っています。千年前の言葉が今とちがう形をしていたことは古文の記事で見たとおり。日本語は、これまでもこれからも、そうやって変わり続けていくのです。