友だちには一言で伝わったのに、同じことを作文に書いたら「意味が分からない」と言われた。そんな経験はありませんか。あなたの説明が下手になったわけではありません。相手がその場にいなくなっただけです。
話し言葉と書き言葉のちがいを聞かれると、多くの人が「書くほうがきちんとしている」と答えます。半分は当たっていますが、それはちがいの結果であって、原因ではありません。
もとになっているちがいは、一つだけです。
目の前に相手がいるとき、言葉は情報の一部でしかありません。指をさす、声の高さを変える、相手のけげんな顔を見て言いなおす。こうした助けが同時に働いています。
ところが書いた文章では、その助けが全部なくなります。指はさせません。声の調子もつきません。相手が首をかしげても、あなたには見えません。読む人は、紙の上の文字だけを持って、たった一人で意味を組み立てることになります。
だから書くときは、言葉のほうで足りない分をおぎなう必要があります。きちんとして見えるのは、そのおぎないの結果なのです。
しゃべっているとき、わたしたちはかなり大ざっぱな言い方をしています。それでも通じるのは、相手がその場にいるからです。よく起きるのは次の三つです。
| 話すときの言い方 | なぜ通じるのか | 書くと起きること |
|---|---|---|
| 主語を言わない 「行った?」 | だれの話かをおたがい分かっている | だれが行ったのか読む人に分からない |
| こそあど言葉 「あれ、取って」 | 目に見えるものを指させる | 「あれ」が何なのか永久に分からない |
| 言いよどみ 「えっと、なんか」 | 考えている時間を相手が待ってくれる | 文字として残り、中身のない部分になる |
三つとも、しゃべっているときには少しも悪くありません。むしろ全部を言い切ると、くどくて聞きづらくなります。「昨日わたしが図書室に行ったのですが、そのことについてあなたも行きましたか」と友だちに言う人はいません。
やっかいなのは、この癖のまま書いてしまうことです。しゃべるときには便利だったものが、書いたとたんに読む人にとっての穴に変わります。
放課後の出来事を、友だちにしゃべったとおりに書いた文と、書き言葉に直した文をならべます。
友だちの前でなら、これで完全に通じます。「あれ」が図書館だと相手も知っていますし、「なんか」のところで顔をしかめれば、残念だった気持ちも伝わります。
これを、その場にいなかった人が読むと想像してみてください。行った先が分かりません。だれが行ったのかも書いてありません。閉まっていた理由も、帰った時こくも残りません。受け取れる情報は、ほとんどゼロです。
足したものを数えてみます。主語の「わたし」、「あれ」の中身である「市立図書館」、閉まっていた理由の「休館日」、そして「なんか」「感じ」を消したこと。この四つだけです。
長さはほとんど変わっていません。ふくらませたのではなく、その場にあったものを言葉に置きかえただけなのです。
作文を書いたあと、次の順番で見なおすと、話し言葉の癖はほとんど取れます。
一つ目から順に見ていきます。主語は、日本語では省いても文の形になってしまうため、書いた本人には抜けが見えません。文の頭に指を置いて「だれが」と口の中で唱えると見つかります。ただし、同じ段落で何度も「わたしは」を書くとしつこくなるので、段落の最初の一文に入れれば十分です。
二つ目のこそあど言葉は、そのすべてが悪いわけではありません。前の文で名前を出したものを二度目に指すときの「その」は、書くときにも使います。直すべきなのは、文章のどこにも書かれていないものを指している場合です。前を読み返して、指す先が見つからなければ、名前を書きます。
三つ目はぼかす言葉です。「すごく大きい」は、どのくらいなのかが伝わりません。書くときは「教室の三倍ほどの広さだった」のように、比べられるものを出します。「〜みたいな」「〜的な」も、しゃべるときは相手の反応を見ながら調整できますが、書いたあとは調整のしようがありません。
四つ目の声に出すは、文の長さを測るためのやり方です。一息で読み切れない文は、勢いのままつなげてしまった文です。「〜で、〜ので、〜だけど」と続いていたら、そこで切って二つに分けます。
ふだん広く使われていても、書くときには直したほうがよい言い方があります。代表的なものを表にします。
| くだけた言い方 | あらためた言い方 | なぜ直すのか |
|---|---|---|
| 見れる・食べれる | 見られる・食べられる | いわゆる「ら抜き」。試験や公的な文章では直される |
| ちゃんと・きちんと | 正しく・順序どおりに | どうすることなのかが読む人に伝わらない |
| やっぱり | やはり | くずした形なので、説明の文章には合わない |
| 〜じゃない | 〜ではない | 同じく、くずした形をもとにもどす |
| すごい早い | 非常に速い | 「すごい」は本来ものの様子を表す言葉で、程度を表す使い方ではない |
ここで気をつけてほしいことがあります。左の言い方はまちがった日本語ではありません。友だちや家族との会話で右の言い方をしたら、かえってよそよそしく感じられるでしょう。
言葉には、使う場面が決まっているものがあります。体育の時間に制服を着ないのと同じで、合わないだけです。両方を知っていて、場面で選べる状態が目標になります。
ここまで「しゃべる=話し言葉、書く=書き言葉」と説明してきましたが、今はその線がずれる場所があります。友だちどうしのメッセージのやりとりです。
文字を打っているのに、中身は完全に話し言葉です。主語はありませんし、こそあど言葉だらけですし、返事もすぐに返ってきます。これは、相手がその場にいるのとほとんど同じ条件がそろっているからです。相手がすぐ読んで、分からなければ聞き返してくれます。
いちばん最後の「自分あてのメモ」に注目してください。数か月前に自分で書いたメモを見て、何のことだか分からなかった経験はないでしょうか。あのとき、書いた自分と読んだ自分は別の人になっています。その場にいない相手とは、他人だけを指すのではないのです。
つまり、ていねいにしたい相手だから改まった書き方をするのではありません。聞き返せない相手だからそうする。この決め方なら、初めて出会う場面でも自分で判断できます。
直そうとするときに、よく起きる引っかかりが三つあります。
「です・ます」を「だ・である」にそろえたら書き言葉になった、と思ってしまうことがあります。これは別の話です。
「だから結局そのまま帰った」は言い切りの形ですが、こそあど言葉と省略が残ったままなので、その場にいなかった人には通じません。文末の形をそろえるのは文体の問題、いない人に通じるようにするのがこの記事の問題です。両方を別々に点検してください。
それらしくしようとして、意味の分からない熟語を辞書から探してきて入れる人がいます。
これは逆の結果になります。読む人はその場にいないので、あなたに「どういう意味?」と聞けません。分からない言葉は、そこで文章が止まる原因になります。目指しているのは、重々しさではなく一人で読んでも通じることです。
物語や作文の中でカギかっこに入れた言葉は、その人が実際に口にしたものです。
「見れなかったよ」と言った人の言葉を「見られなかった」に直すと、その人がしゃべった中身そのものが変わります。地の文だけを直し、カギかっこの中はそのままにします。インタビューをまとめるときも同じで、話してくれた言葉をかってに整えると、記録として使えなくなります。
Q1 話し言葉と書き言葉の、いちばんもとになるちがいは何ですか。
A 相手がその場にいるかどうか。ていねいさのちがいは、その結果として出てくるもの。
Q2 「あれ取って」が文章では通じないのはなぜですか。
A 紙の上では指をさせないため、「あれ」が何なのか読む人に分からないから。
Q3 「昨日行ったんだけど、閉まってた。」を直すとき、まず何をたしかめますか。
A 主語(だれが行ったのか)と、省略された名前(どこへ行ったのか)。
Q4 友だちへのメッセージがくだけたままでよいのはなぜですか。
A 相手がすぐ読んで聞き返せるので、その場にいるのとほぼ同じ条件だから。
Q5 「見れる」「食べれる」はどう直しますか。また、それは誤りですか。
A 見られる・食べられるとする。誤りではなく、ふだん広く使われている言い方で、使う場面が別というだけ。
中学に上がると、その場にいない人に向けて書く機会が急に増えます。理科のレポートは実験を見ていない人が読みますし、職場体験のお礼状は会ったことのない相手にも回ります。生徒会の連らく文にいたっては、全校がそれ一枚だけを見て動きます。
どれも、書いた本人が横にいて説明することはできません。読んだ人が首をかしげたら、そこで終わりです。
そして高校入試の作文や面接では、くだけた言い方のまじった答案が減点の理由になることがあります。中身がよくても、こそあど言葉の指す先が書かれていないだけで、伝わらない答案になってしまいます。
だからこそ、この見なおしは今のうちに癖にしておくと効きます。書き終えたあとに主語とこそあど言葉を確かめる、それだけです。ほかの見なおしの手順は文章の推敲にまとめてあります。
作文にふだんの口ぶりがまじるのは、書く力が弱いからではありません。目の前の相手に通じる伝え方が身についている証拠でもあります。ですから「そんな書き方はだめ」と否定してしまうと、ふだんのしゃべり方まで悪いことのように受け取られてしまいます。
おすすめの声かけは「これ、その場にいなかった人が読んでも分かる?」の一言です。よい悪いの評価ではなく、読む人の立場を思い出させるだけなので、子ども自身が直す場所を見つけられます。
直す作業は、主語とこそあど言葉の二点にしぼるだけで十分です。三つも四つも指摘すると、書くこと自体がいやになります。
この力は国語だけの話ではありません。理科の観察記録も、社会の調べ学習のまとめも、読むのはその場にいなかった人です。中学以降のレポートや志望理由書まで、ずっと同じ一点が問われつづけます。