歴史の教科書は、八月十五日でひと区切りつきます。そのせいで「戦争が終わって、日本はまた普通の国にもどった」と思いがちです。ところが実際には、そこから七年近く、日本には自分で外国と条約を結ぶ力がありませんでした。新しい日本、平和な日本へという単元は、その七年間から始まって、今のあなたの教室まで一本の線でつながっている話です。ここでは「どうやって国際社会にもどったか」と「豊かになる代わりに何を失ったか」の二つを軸にたどります。戦争そのものの経過は昭和・戦争と平和で扱っているので、この記事は敗戦の翌日から先を受け持ちます。
敗戦後の日本を実際に動かしていたのは、連合国軍総司令部(GHQ)でした。日本政府も国会もありましたが、その上にGHQがいて、方針を出していたのです。外国と話し合って条約を結ぶことも、軍隊を持つことも、自分の判断ではできません。こういう状態を占領といいます。
ここで一つおさえておきたいのは、占領の目的が罰を与えることではなく、もう一度戦争を起こす国にしないための作りかえだったという点です。そのために選挙の仕組みや土地の持ち主、学校の制度まで手が入りました。日本国憲法が一九四六年に公布されたのも、この期間のできごとです。
つまり一九四五年から一九五二年までの日本は、「負けた国」であると同時に「作りかえの工事中の国」でした。工事が終わって足場が外れるまでに、七年近くかかったと考えるとイメージしやすいでしょう。
もどるといっても、一度の手続きで済んだわけではありません。関門が三つあり、それぞれ別の年に、別の相手と越えています。ここがこの単元でいちばん混乱しやすいところなので、表にしておきます。
| 関門 | できごと | 年 | これで何ができるようになったか |
|---|---|---|---|
| 独立を取りもどす | サンフランシスコ平和条約 | 一九五一年に調印、一九五二年発効 | 占領が終わり、自分の判断で外国と条約を結べるようになった |
| 世界の会議に席を得る | 国際連合への加盟 | 一九五六年 | 世界の話し合いの場に、国として参加できるようになった |
| 近くの国と関係を作り直す | 日ソ共同宣言・日韓基本条約・日中共同声明 | 一九五六年・一九六五年・一九七二年 | 戦争で切れていた近隣国との行き来が再開した |
国際連合への加盟が独立から四年も遅れているのはなぜでしょうか。加盟には、安全保障理事会で拒否権を持つ国が反対しないことが必要でした。当時のソ連は日本の加盟に反対していたため、まず一九五六年に日ソ共同宣言で戦争状態を終わらせる合意をし、その直後に加盟が実現したのです。順番に意味があるという、歴史の典型的な形がここに出ています。
また、平和条約と同じ日に日米安全保障条約も結ばれました。独立を回復したあともアメリカ軍が日本にとどまり、日本の防衛に関わる仕組みです。独立とアメリカ軍の駐留が同時にセットで始まった、という点は今の沖縄や基地の話につながるので、頭のすみに置いておきましょう。
そして一九七二年、沖縄が日本に復帰します。沖縄は本土が独立を回復したあとも二十年間、アメリカの統治下に置かれていました。同じ年に日中共同声明も出されており、一九七二年は戦後の区切りの年としてよく問われます。
一九五五年ごろから一九七三年ごろにかけて、日本の経済は毎年ぐんぐん伸びました。数字だけ見てもぴんと来ないので、家の中がどう変わったかで見ていきます。
| 時期 | あこがれの品 | それで何が変わったか |
|---|---|---|
| 一九五〇年代後半 | 白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫(三種の神器) | 家事の時間が減り、全国の人が同じ番組を同じ日に見るようになった |
| 一九六〇年代後半 | カラーテレビ・クーラー・自動車 | 移動できる範囲が広がり、家族の休日の過ごし方が変わった |
一九六四年には東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開かれました。道路や鉄道や上下水道が一気に整えられたのもこの時期です。地方から都市へ働きに出る人が増え、都市には団地が建ち、農村では人が減りました。日本人の住む場所そのものが動いた時代だといえます。
ここで気をつけたいのは、この変化が全員に同じように届いたわけではないことです。都市に人が集中した結果、通勤ラッシュやごみ、住宅の不足といった問題が生まれ、人が減った地方では学校やバスを維持することが難しくなりました。得たものと失った場所が、同じ時期に同時にあったのです。
工場が増えれば、けむりと排水も増えます。その被害が人の体に出たのが公害です。とくに被害が大きかった四つは、四大公害病としてまとめて覚えます。
いずれも、住民が「おかしい」と声を上げてから原因が認められるまでに長い年月がかかりました。裁判で住民側が勝ったことをきっかけに、国は一九六七年に公害対策基本法をつくり、一九七一年には環境庁(今の環境省)を設けます。今あるルールの多くは、はじめからあったのではなく、被害を受けた人が動いたから生まれたものです。
勢いのよかった経済が止まるきっかけも、外からやってきました。一九七三年、中東での戦争をきっかけに石油の値段が一気に上がった石油危機です。石油を輸入にたよる日本は打撃を受け、物の値段が上がり、二十年近く続いた高度経済成長はここで終わります。以後の日本は、燃料をむだにしない技術や、小さくて燃費のよい自動車をつくる方向へかじを切っていきました。困ったことが、次の強みを生んだ例です。
一九八〇年代の終わり、土地と株の値段が実際の価値をこえて上がり続けました。この状態をバブル経済といいます。ふくらんだあわは一九九一年ごろにはじけ、値段は急に下がり、会社の倒産や就職難が長く続きました。
そこへ大きな災害も重なります。一九九五年の阪神・淡路大震災では約六千四百人が、二〇一一年の東日本大震災では地震と津波、そして原子力発電所の事故によって約二万人が亡くなりました。この二つをきっかけに、ボランティアの仕組みや建物の耐震の基準、災害時の情報の出し方が大きく見直されています。
そして今いちばん大きな変化が、少子高齢化です。生まれる子どもが減り、六十五才以上の人の割合が増え続けています。働く人が減れば税金や保険料を負担する人も減り、支える側と支えられる側の数のバランスが変わります。これは昔話ではなく、あなたが大人になるときの日本の形を決める数字です。くわしくはくらしと税・社会保障とあわせて読むと、つながりが見えてきます。
この単元を「平和になりました、めでたし」で終わらせないために、今も続いている課題を三つだけ挙げます。
どれも、正解が一つに決まっている問題ではありません。だからこそ「どちらが正しいか」を急いで決める前に、それぞれの立場がなぜそう言うのかを両方知るところから始めてください。これが六年生の歴史の、最後の学び方です。
一九四五年は戦争が終わった年であって、独立を回復した年ではありません。独立の回復はサンフランシスコ平和条約が発効した一九五二年です。「終戦は四五年、独立は五二年、国連加盟は五六年」と、三つを別々の年として覚えましょう。数字のあいだが七年、四年とあいていることに意味があります。
本土が占領を終えたのは一九五二年、沖縄が日本に復帰したのは一九七二年で、二十年の差があります。この差を知っていると、沖縄の基地の話が「昔から特別だった」のではなく「戦後の経緯からそうなった」ことがわかります。
四大公害病は過去のできごとですが、そこから生まれた環境の法律や役所は今も動いています。テストでは「公害が起きた→住民が裁判を起こした→国が法律と役所をつくった」という順番が問われます。できごとの名前より、この流れを言えるようにしておきましょう。
問1 日本が独立を回復したのはどの条約によってですか。調印の年と発効の年もあわせて書きましょう。
サンフランシスコ平和条約による。一九五一年に調印し、一九五二年に発効して占領が終わった。これにより日本は自分の判断で外国と条約を結べるようになった。
問2 日本の国際連合への加盟が、独立の回復より四年おくれたのはなぜですか。
加盟には安全保障理事会で拒否権を持つ国が反対しないことが必要で、当時のソ連が日本の加盟に反対していたため。一九五六年に日ソ共同宣言で戦争状態を終わらせる合意ができ、その後に加盟が実現した。
問3 四大公害病のうち二つを、起きた県と原因となった物質とあわせて答えましょう。
例…水俣病は熊本県で、工場排水にふくまれた有機水銀が原因。イタイイタイ病は富山県で、鉱山から流れ出たカドミウムが原因。ほかに新潟水俣病(新潟県・有機水銀)、四日市ぜんそく(三重県・石油化学工場のけむり)がある。
問4 高度経済成長が終わるきっかけとなったできごとを挙げ、その後の日本の産業がどう変わったか書きましょう。
一九七三年の石油危機。石油の値段が急に上がって物の値段も上がり、成長が止まった。その後の日本は燃料をむだにしない技術や燃費のよい自動車づくりに力を入れるようになった。