6年生社会歴史

昭和・戦争と平和|焼け野原から立ち上がった国のはなし

昭和・戦争と平和は、日本の歴史のなかでもいちばん重い単元です。たくさんの人が亡くなり、まちが焼かれました。でもここで学んでほしいのは「かわいそうだった」という感想だけではありません。なぜ止められなかったのか、そしてそのあと日本は何を決めたのか。この二つがわかると、今の日本の形が見えてきます。

戦争のはじまりは「不景気」だった

1929年、アメリカで株の値段が大暴落し、その影響が世界中に広がりました。これを世界恐慌といいます。日本もひどい不景気になり、工場がつぶれて仕事を失う人があふれ、農村では作物が売れず、子どもを働きに出す家庭も出ました。

苦しいとき、人は「だれかがこの状況を一気に変えてくれないか」と願いがちです。そんな空気のなか、軍の一部が「大陸に日本の領土を広げれば、資源も土地も手に入る」と主張しはじめました。1931年、日本軍は中国の東北部で鉄道が爆破された事件をきっかけに軍事行動を起こし、この地域を占領して「満州国」をつくります(満州事変)。

国際連盟はこれを認めず、引きあげるよう求めました。しかし日本はそれに従わず、1933年に国際連盟を脱退します。話し合いの場から自分から出ていったことで、日本は世界の中で孤立していきました。ここが大きな分かれ道でした。

日中戦争から太平洋戦争へ

1937年、北京の近くで日本軍と中国軍がぶつかり、日中戦争が始まります。当初は短期間で終わると考えられていましたが、中国は広く、戦いは長引きました。国内では1938年に国家総動員法がつくられ、人も物もお金も、政府の命令で戦争に回せるようになります。

やがて日本は、石油やゴムなどの資源を求めて東南アジアへ進出します。これに反発したアメリカは日本への石油輸出を止めました。石油がなければ、船も飛行機も動きません。追いつめられた日本は1941年12月、ハワイの真珠湾にあるアメリカ軍基地を攻撃し、太平洋戦争が始まりました。

日本はドイツ・イタリアと同盟を結んで戦いましたが、アメリカとの国力の差は大きなものでした。開戦時の工業生産力は、アメリカが日本のおよそ10倍あったといわれます。資源がほしくて始めた戦争によって、さらに資源を失っていく――これが太平洋戦争の苦しい構図でした。

戦争中の人びとの暮らし

戦争は、戦場にいる兵士だけのものではありませんでした。国内の暮らしもすっかり変わります。

できごとどんなことか
配給制・切符制米・さとう・衣類などが自由に買えなくなり、決められた量だけ配られた
金属の供出なべ・お寺のかね・銅像まで集められ、兵器の材料にされた
学徒動員中学生や女学生が学校ではなく工場で働かされた
学童疎開都市の小学生が、親と離れて地方の寺や旅館へ集団で移された
空襲各地の都市が爆撃された。1945年3月の東京大空襲では一晩で約10万人が亡くなった

1945年3月からは沖縄戦が始まりました。日本で唯一、住民をまきこんだ大規模な地上戦となり、県民のおよそ4人に1人が亡くなったといわれます。

そして8月6日に広島、8月9日に長崎へ原子爆弾が落とされました。たった1発でまちが消え、その年のうちに広島で約14万人、長崎で約7万人が亡くなったと推定されています。放射線による病気は、戦争が終わったあとも長く人びとを苦しめ続けました。

8月14日、日本はポツダム宣言を受け入れて降伏を決め、翌8月15日、ラジオの放送(玉音放送)で国民に戦争の終わりが伝えられました。日本人の死者は軍人・民間人あわせて約310万人。アジア全体では、それをはるかに上回る人が犠牲になりました。

敗戦後、日本は作りかえられた

戦後の日本は、GHQ(連合国軍総司令部)の指導のもとで大きな改革を行いました。目的ははっきりしていて、二度と戦争を起こす国にしないことでした。

農地改革が重視されるのはなぜでしょうか。戦前の農村では、地主に高い小作料を払う貧しい農家が多く、それが不満と、戦争を支持する空気の土台になっていたと考えられたからです。暮らしを安定させることが平和につながる、という発想でした。

日本国憲法――三つの原則

1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行されたのが日本国憲法です。前の大日本帝国憲法とは根本から考え方がちがいます。

国民主権  国の進む道を最後に決めるのは国民。  天皇は政治の力を持たず、日本の「象徴」となった。 基本的人権の尊重  人が生まれながらに持つ権利は、  だれにもうばえない(おかすことのできない永久の権利)。 平和主義  戦争をしない。戦力を持たない。(第9条)

この三つはバラバラの決まりではなく、つながっています。国民が主人公だからこそ人権が守られ、人権が守られるためには戦争をしないことが必要だ、という筋道です。

また、憲法の公布日11月3日は「文化の日」、施行日5月3日は「憲法記念日」として今も祝日になっています。カレンダーの中に歴史が残っている、というわけです。

復興と高度経済成長

焼け野原から、日本は驚くほど速く立ち直りました。1951年にサンフランシスコ平和条約を結んで独立を回復し、1956年には国際連合に加盟して国際社会へ復帰します。

1955年ごろから1973年ごろまでの約20年間、日本の経済は毎年10%近く成長し続けました。これを高度経済成長といいます。テレビ・洗濯機・冷蔵庫が家庭に広まり、1964年には東海道新幹線が開通、同じ年に東京オリンピックが開かれました。1972年には沖縄が日本に復帰しています。

ただし、いいことばかりではありませんでした。工場の排水や排煙によって水俣病・イタイイタイ病・四日市ぜんそくなどの公害が発生し、多くの人が健康を害します。国は1967年に公害対策基本法をつくり、1971年には環境庁(今の環境省)を設けました。豊かさを追いかけると、別の問題が生まれることがある――このことも、この時代が私たちに残した学びです。

つまずきやすいところ

戦争の始まりと終わりの年が混ざる

順番で覚えると混ざりません。1931年に満州事変、1937年に日中戦争、1941年に太平洋戦争が始まり、1945年に終わりました。「31・37・41・45」と数字だけをリズムで唱えてから、それぞれに出来事をあてはめるとよいでしょう。

ポツダム宣言と日本国憲法を同じ年だと思ってしまう

ポツダム宣言の受け入れ(降伏)は1945年、日本国憲法の公布は1946年、施行は1947年です。「敗戦の年に憲法ができた」ではありません。公布は「できましたと発表すること」、施行は「実際に使いはじめること」というちがいもおさえておきましょう。

「平和主義=日本だけが決めたこと」だと思ってしまう

日本国憲法はGHQの案をもとに、当時の日本政府と国会での議論を経てつくられました。国民の側にも、あれほどの犠牲のあとで「もう戦争はいやだ」という強い願いがありました。押しつけられただけ、でも自分たちだけで決めた、でもない。両方の面があったと理解しておくと、中学以降の学習でも通用します。

やってみよう

問1 日本が国際連盟を脱退したのはなぜですか。きっかけとなった出来事とあわせて答えましょう。

満州事変で日本が中国東北部を占領して満州国をつくったが、国際連盟がこれを認めず引きあげを求めた。日本はそれに従わず、1933年に国際連盟を脱退した。この結果、日本は国際社会で孤立していった。

問2 学童疎開とはどんなことですか。なぜ行われたのか、理由も書きましょう。

都市の小学生が、親と離れて地方の寺や旅館などへ集団で移り住んだこと。都市が空襲を受ける危険が高まったため、子どもの命を守る目的で行われた。

問3 日本国憲法の三つの原則を書きましょう。

国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三つ。国の進む道を決めるのは国民であり、人が生まれながらに持つ権利は永久にうばえず、戦争をせず戦力を持たない、という内容である。

問4 高度経済成長の時期に起きた、よい変化とよくない変化をそれぞれ一つずつ挙げましょう。

よい変化の例…テレビ・洗濯機・冷蔵庫が家庭に広まり、東海道新幹線が開通して東京オリンピックが開かれた。よくない変化の例…工場の排水や排煙による公害が発生し、水俣病などで多くの人が健康を害した。

まとめ

おうちの方へこの単元は感情に流れやすい一方、事実の量も多く負担の大きい範囲です。おすすめは、身近な高齢の方の話を聞く、地域の慰霊碑や資料館を訪ねる、といった「一人の人の体験」に触れることです。数字の大きさより一人の物語のほうが記憶に残り、その足場があると年号や用語も定着しやすくなります。