江戸時代は260年ものあいだ、ほとんど同じ暮らしが続きました。ところが明治〜大正時代に入ると、たった40年ほどで着るもの・学校・軍隊・工場・政治のしくみまで、まるごと入れかわります。この単元は「なぜそんなに急いだのか」がわかると、バラバラの用語が一本の線につながります。
1853年、アメリカのペリーが4せきの軍艦(黒船)を率いて浦賀にやってきました。江戸幕府はその大きさと大砲におどろき、翌年ついに開国します。しかしこのとき結ばされた条約は、日本にとってとても不利なものでした。
不利だった点は、大きく2つです。ひとつめは関税自主権がないこと。外国の品物にどれだけ税をかけるかを、日本が自分で決められませんでした。安い外国製品がどんどん入ってきても、止める手段がないということです。ふたつめは領事裁判権(治外法権)を認めたこと。外国人が日本で罪をおかしても、日本の裁判所ではさばけませんでした。
この2つをまとめて不平等条約といいます。当時の人たちは「なぜこんな条約をのまされたのか」を考え、こう結論を出しました。――日本が弱い国だからだ、と。明治の政治家たちがおそろしい速さで改革を進めたのは、この一点に理由があります。強い国にならなければ、清(今の中国)やインドのように、欧米に切りとられてしまうと本気で考えていたのです。
倒幕をなしとげたのは、薩摩藩(今の鹿児島県)や長州藩(今の山口県)の武士たちでした。ところが新しい政府をつくった彼らが最初にやったのは、なんと武士という身分そのものをなくすことでした。自分たちの立場を自分で壊したのです。ここが明治維新のいちばん不思議で、いちばん重要なところです。
なぜそうしたのか。江戸時代の日本は、藩ごとにバラバラの国のようなものでした。藩ごとに殿さまがいて、藩ごとに軍隊があり、藩をまたぐには手続きがいる。これでは欧米と戦えない。だから「日本」というひとつの国にまとめる必要がありました。
この結果、税は藩ではなく国が集め、軍隊も国がひとつ持つことになりました。バラバラだった力を一か所に集めた、といういい方ができます。
新政府がかかげたスローガンが富国強兵(国を豊かにし、軍を強くする)です。そのために出された制度が、次の三つでした。
地租改正の意味は少しむずかしいので、ていねいに説明します。江戸時代は米で税を納めていたので、不作の年は税収がガクンと減りました。国の予算が天気まかせでは、鉄道も工場もつくれません。そこで「土地の値段」という毎年変わらない数字を基準にし、現金で納めさせたのです。おかげで政府の収入は安定しましたが、農民にとっては不作でも同じ額を払わねばならず、各地で地租改正反対の一揆が起きました。改革にはかならず、得をする人と苦しむ人がいます。
文明開化とは、欧米の文化や技術がどっと入ってきて、都市の暮らしが大きく変わったことをいいます。「散切り頭をたたいてみれば文明開化の音がする」という言葉が流行しました。ちょんまげを切った髪型のことです。
| 分野 | 変わったこと |
|---|---|
| 服装 | 着物から洋服へ。役人や軍人がまず洋服になった |
| 食べ物 | 牛なべ(すき焼き)・パン・牛乳。それまで牛肉はほとんど食べなかった |
| まち | れんが造りの建物、ガス灯、人力車、馬車 |
| 交通 | 1872年、新橋〜横浜に鉄道が開通 |
| こよみ | 太陰暦から太陽暦へ。1日24時間・1週間7日制に |
ただし注意したいのは、これがおもに東京や横浜などの都市の話だという点です。地方の農村では、しばらく江戸時代とあまり変わらない暮らしが続いていました。教科書の絵にある「文明開化の風景」は、当時としてはとても最先端の、めずらしい光景だったのです。
また、福沢諭吉が『学問のすすめ』で「天は人の上に人を造らず」と書き、人は生まれで決まるのではなく学ぶことで道が開ける、という考えを広めました。身分がなくなった直後の日本で、この本が大ベストセラーになったのは自然なことでした。
改革は速く進みましたが、政治を動かしていたのは薩摩・長州出身の一部の人たちでした。これを藩閥政治といいます。「税を納めているのに、政治に口を出せないのはおかしい」という声が上がり、板垣退助らが国会を開くよう求めました。これが自由民権運動です。演説会が各地で開かれ、政府は取りしまりましたが、勢いは止まりませんでした。
政府は1881年、「10年後に国会を開く」と約束します。そして伊藤博文がヨーロッパへ渡り、君主の力が強いドイツ(プロイセン)の憲法を学んで帰国しました。こうして1889年、大日本帝国憲法が発布されます。
ここが大事なところです。この憲法は、国民が話し合って作ったものではなく、天皇が国民にあたえるという形で発布されました。主権(国を最終的に決める力)は天皇にあり、国民は「臣民」と呼ばれ、権利は「法律の範囲内で」認められました。翌年には帝国議会が開かれましたが、選挙で投票できたのは「一定額以上の税を納める25才以上の男子」だけ。全人口のおよそ1%にすぎませんでした。
それでも、アジアで最初に憲法と議会を持った国になったことは大きな出来事でした。「まだ不十分だが、大きな一歩だった」――このとらえ方ができると、テストでも記述問題に強くなります。
強い国をめざした日本は、やがて大陸へ目を向けます。日清戦争(1894〜95年)で清に勝ち、多額の賠償金と台湾を得ました。日露戦争(1904〜05年)では、大国ロシアに苦戦しながらも勝利します。しかしこの戦争では賠償金が取れず、重い税に苦しんだ国民の不満が爆発しました。
日清戦争の賠償金を使って建てられたのが、北九州の八幡製鉄所(1901年操業)です。鉄は機械・鉄道・船・武器のもとになる材料なので、鉄を自分の国で作れることは、産業が自立する条件でした。同じころ、群馬県の富岡製糸場を先がけとして製糸業(生糸をつくる)が発展し、生糸は日本の最大の輸出品になりました。
そして1911年、外務大臣の小村寿太郎が関税自主権を回復します。ペリー来航から58年。明治政府が全力で走り続けた最大の目標が、ここでようやく達成されました。単元の最初と最後がつながる場面です。
大正時代(1912〜26年)になると、「もっと多くの人が政治に参加すべきだ」という空気が強まります。これを大正デモクラシーといいます。第一次世界大戦で日本の輸出が伸び、工場で働く人や都市で働く会社員が増えたことが背景にあります。
ただし、同じ1925年に治安維持法も作られ、政府に反対する動きは取りしまられました。また女性にはまだ選挙権がありません(女性が投票できるのは1945年から)。広がりながら、同時にしめつけも強まる――大正時代のこの二面性は、次に学ぶ昭和の戦争へつながっていきます。
明治維新は、ある1日の出来事ではありません。1868年の新政府成立を中心に、廃藩置県・学制・徴兵令・地租改正といった一連の改革をまとめた呼び名です。「1868年に何かが起きた」ではなく「1860年代後半から1870年代にかけての改革ぜんぶ」と覚えましょう。
順番は「清が先、ロシアが後」。清=アジアの大国、ロシア=ヨーロッパの大国、と相手の位置で覚えると混ざりません。決定的なちがいは賠償金です。日清は賠償金あり(→八幡製鉄所ができた)、日露は賠償金なし(→国民の不満が爆発)。この一点をおさえれば区別できます。
いちばん大きなちがいは主権のありかです。大日本帝国憲法は主権が天皇にあり、国民は「臣民」でした。今の日本国憲法は主権が国民にあり、天皇は日本の象徴です。この一行だけは、そっくりそのまま言えるようにしておくと安心です。
問1 幕末に結ばれた条約が「不平等」といわれた理由を、2つ答えましょう。
関税自主権がなかったこと(輸入品にかける税を日本が決められなかった)と、領事裁判権を認めたこと(外国人の罪を日本の裁判所でさばけなかった)の2つ。
問2 地租改正で、税の納め方はどう変わりましたか。
それまでは収穫した米で納めていたが、土地の値段の3%を現金で納めるように変わった。これにより、天候に左右されず政府の収入が安定した。
問3 1889年に発布された憲法の名前と、主権を持っていた人を答えましょう。
大日本帝国憲法。主権は天皇にあった。翌1890年に帝国議会が開かれたが、選挙権を持つのは一定額以上の税を納める25才以上の男子だけだった。
問4 1925年の普通選挙法で、選挙権を得たのはどんな人ですか。まだ選挙権がなかったのはだれですか。
25才以上のすべての男子が、納める税額に関係なく選挙権を得た。女性にはまだ選挙権がなく、女性が投票できるようになるのは1945年からである。